昭和四十九年十一月二十三日 朝の御理解


御理解 第二十二節 「天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ。」


 「ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ」というのは、ここでは御利益という意味ではなくて、お徳というおかげを頂くためにはですね、お徳を受けるためには、ままよという心。そうですね、いつも「ままよ」というような心を出さねばならんというようなことは、いつもあることではありません。いうならそういう特別の力を受けるとか、特別のお徳を受けるといったようなおかげは、そういつもざらにはありません。
 例えば、厳密に言えば、日々ありましょうけれども。例えば、病気をする。医者に見放されるような病気をする。そういう時に例えば、腹を据える。どん腹を据える。ままよ、という心。そこにはもう不安がない。度胸が出来てる。ままよとは、例えば、そういう場合を、ね。いろんな人間関係の上にも、または商売人なんかは、特に金銭、経済の面で、度胸を据えなければならないようなことがあります。
 さあ金が足りないというと、あちらを走り、こちらを走りすることじゃいけん。神様にお願いをしてあるのだからという、いわばどん腹を据えて、神様に一心にすがる。そこには不思議な不思議な、いうならば働きが起こる。その不思議な働きが起こるということ、そのことが、いよいよ神様を確信することが出来るのである。その神様を確信するということがお徳を受けるということでもあるのです。いうならば確信をもっての受け物というか、ね。または神様は平等におかげを授けておられるのだけれども、受け物が悪いと、おかげが漏ると仰っとられます。結局、おかげを受ける人、受けない人、その受け物いかんによることであります。だから、受け物が悪ければ、おかげ漏る。
 どういうものかと言うと、今申しますように、確信をもっての、確信というおかげの受け物。これは、いうならば完璧のおかげとでも申しましょうかね。確信しておる。ね。それが百のおかげを頂かれる。半信半疑であったら、おかげも半分。疑うてかかれば、もうおかげはない。絶対と確信の出来れるところに。
 おかげの受け物というものは、確信というおかげの受け物。そういうおかげをいよいよ頂かせて頂くために、信心のけいこをさせて頂いて、日々ということではないけれども、何かの節にぶつかった時、難儀にぶつかった時に、その時の姿勢がです、どっこいとそれを受けて立たせてもらう信心。度胸を据えての信心。いうなら「ままよ」という信心をさせて頂いて、一つ一つ、ね、おかげの受け物が完璧になっていく力を受けていくということになりますね。
 いくら信心のけいこが出来よってもです、ここでおかげを受けんならん、ここで徳を受けんならんという時に、そこをしだごだにやっていくならば、いつまでたっても確信というものは生まれて来ません。神様を信じて疑わないというところに、いわゆる水も漏らさぬおかげということにもなってくる。同時にまた、受け物が悪いと、と言うてありますから、粗末な受け物、または小さい受け物よりも大きな受け物ということになりますね。
 そこで大きな受け物、大きなおかげを頂きたいと思うなら、やはり大きな受け物を作らにゃ出来ん。そのためにはやはり、心が大きくならなければならんということ。
 そこで心が大きくなるためには、どういう信心をさせて頂いたら良いかということを、【 】頂いておるわけなんです。確信ということによって、いうならば水も漏らさぬおかげというなら、心が広う大きゅうなるということで、おかげがいよいよ広う大きゅうなっていくということ。
 昔、もう二十数年前でしたが、願っても願ってもおかげにならん。そういう時に、ある時私、こんな御理解を頂いたことがあった。
 確かにお米は買いに行った。確かに、一斗なら一斗のお米を買いに行って、家に持って帰った時には、もうそれが半分になっておった。途中で減るはずはないのだけれども、結局は何処からか漏れておるということである。見てみると、成程ここにごけな大きな穴が開いておったということが分かる。そこでその穴をふせていくというのです。ね。
 私の場合は、もうそれこそもうあっちこっちが破れておるものですから、もうふせだらけ。(笑)ふせということは、仏教的にいうとお布施という。お道の信心ではお供えという。そのお供えで、自分の持っておるおかげの受け物の袋というものが、お布施でいっぱいになって、もうふせどころがないごと一杯にふせ〔てある〕。そしてもうふせどころがないごと、いっぱいふせった時にです、神様は初めて、新たな新しい袋、大きな袋と今度は取り替えてくださるという意味の御理解を頂いたことがあります。
 もうふせだらけの時には、いくら願っても、どげな修行をしてもおかげ頂かなかった。けれどもふせてふせて、もうそれこそいっぱいふせだらけになったところ、いわばその時点で、神様が新しい袋と取り替えてくださった。また大きな袋と取り替えてくださった。それからおかげが確実になってきた。しかもだんだん大きくなってきた。
 皆さんがこうやってお参りをしておられる。例えば、何がしかのお供えをなさるということはね、そういう働きもするものです。お布施の働きです。同時に、只今私が申しますように、受け物が悪ければというそのこと、または受け物が小さければということ。ね。小さければおかげも小さいし、おかげの受け物、例えば、お神酒を買いに行くのに醤油びんを持って行ったら醤油臭い。油びんを持って行ったら、その酒が油臭くて飲めないということになる。確かにいい酒、あそこの酒屋んとは油臭か。あそこの酒屋んとは醤油臭かった、というような事ではおかげにならん。
 例えば私、昨日からそのことを考えたんですけれども、難儀な方にそのことを聞いてもらったんですけれども、例えば、いろんな問題や、難儀な問題とかがある時に、それを人のせいにする人がある。もうそげなことでは、本当におかげは受けられませんです。ね。いうならば、酒を買いに行って油臭かった。あっちの酒は油臭いと言うて、酒屋の方に難癖をつける。自分の受け物が油びんを持って行っておることは分からずに、自分が醤油びんを持って行っておることは分からずに、それをきれいに清めもせずに頂いて来ておるからそうなんだ。
 または五合どっくりを持って行って、一升くださいと言うたって、くださりゃしない。やはり一升のお酒が欲しいなら、一升びんを持って行かなければ、一升どっくりを持って行かなければ出来ん。もう、理の当然のことです。ねえ。
 そこで皆さんがこうやって朝参りの修行をなさる。御理解を頂きなさるということは、そういう受け物をつくれ、またはこうして作るのだと、またはこうして受け物を大きくしていくのだということを頂いておることに他ならないのであります。
 成程最近、合楽示現活動ということが言われるようになって、さっきから申しますように、受け物はなくっても奇蹟的なおかげが受けられる。ね。そういうおかげの受けられる今日ですけれどもです、それはいつまでも続くということではない。自分自身が本当に、自分が助かるということのために心が豊かに大きゅうならなければ、自分が助かるということは出来ません。自分が心が豊かに大きゅうなるから、おかげも豊かに大きくなってくるのです。
 合楽示現活動に、ただ受け物なしにおかげの受けられるということだけに便乗しておるというような信心では、これはいうなら徳にも、いよいよの時にどっこいというような腹も度胸も出来ません。私どもいよいよの時に、いよいよというか、うろたえなければならないような時に、うろたえるようなことではおかげになりません。ね。それをうろたえんですむだけの信心を、常日頃、頂いとかなきゃいけません。ね。
 そういううろたえなければいけんといったような事が、いつもかつもあるはずはありません。たまたま出来る。たまたま、時々お徳の受けられる、そういういうならば働きが起こってくるのですけれども、その働きを困ったことと思うたり、難儀なことと思うたり、というような頂き方では、いつまでたってもお徳は受けられません。そういう時に、いわゆる「ままよ」という、「ままよとは、死んでもままよのことぞ」と教えとられるくらいですから、そういう私は度胸の出来れる信心をさせてもらわなければいけないと思う。
 魂を清める。心を大きくする。それは混ざりっけのないおかげ。いうならお酒を買いに行くならば、清めてある受け物で受けてくるのですから、神様からそのままの有難いものを頂いて帰ることが、混ざりっけのない有難いものを頂いて帰ることが出来る。心を豊かにする、心を大きくするから、おかげが当然大きくなってくる道理です。ね。
 天地の親神様は、おかげは絶対のもの。神様は絶対のおかげをくださってあるのですけれども、どういうおかげでも頂けんことはないんだけれども、こちらがただ受け物が粗末だから漏れてしまっておるということです。
 昨日一昨日から、日田からお参りをしてくる親子があります。息子さんが九つになります。ところが生まれつきに目に白い幕がかかって、生まれつき目が見えないというわけです。ずいぶん迷うところにも迷うたり、医者にも行った。これはもうけれども生まれつきのものだから、眼科の医者が手術してもだめだからと言って請け合わん。そこで今では、別府の方の盲さんばっかりを教導する学校のようなところに入れておる。
 たまたま先日、大分支部の共励会に初めておかげを頂いて、いうならば合楽の方たちのお話を頂いて感動した。次々に奇蹟的なおかげを受けておられる人たちの話を聞いて感動した。そして自分のところの息子もです、そういう神様のおかげを頂いたら、ひょっとすると目が見えるようになるかもしれないと思うた。そこでその時に導いてもろうた方のところに、別府から息子を呼び寄せて、お参りしようと思うがと言いよんなさいますがというて、その方から電話がかかってきた。
 それで私が申しました。別府の学校に、盲ですから、盲目のための学校にやって、神様に目を開けてくださいと言うたって、おかげ頂かれないよ、と私は〔申しました〕。ね。本当におかげを頂きたいならばです、いうならばそれはどういう事になるかというとですね、神様におかげのお繰り合わせを願いながらです、あっちこっち心配して回りよるのと同じことです。いうならば二心です。例えば、そういう生まれつきの難儀といったようなたいへんなものがです、二心で一心を出さずしておかげが受けられるとは思われない。
 そしたら、昨日の朝の御祈念に参ってきた。子供を連れて。皆さん一緒だった。もう本当に座頭市がこうやってやるでしょう。目を。白い目もとが。同じ表情をしますよね。そこへ参ってきてましたでしょう。昨日の朝。
 その前の日に参ってきたときは、昼参ってきた。もう二人の話を聞きよってから、もうこちらのほうが胸がつまるごとあった。もう生まれていうなら九年間、目が見えない。それをまあだね、どうでも何とかしてほしい。見えるごとなるならばと、親も一生懸命なんです。
 ちょうど下関の中林さんから手紙がきておった。この下関の中林さんというのは、二十年前に、生まれつきに白い幕ができて、お願いに〔来られた〕。これは下関の教会の総代をしておられた有名な信者さん。そこで合楽に、当時、椛目でおかげを頂いて、お医者様が気休めに、少し大きくなったならば、手術をしてみろと言われるのですけれども、手術をしたならば本当に目が見えるごとなろうごとしてこたえん。何回もお届けがあったけれども、手術をするなと私は言うておった。それから何ヶ月かしてからでした。参ってきてから、お医者さんが手術してよいと言われるから、と言うから、その時ちょうど久富先生が座っておられた。親先生がああいうふうにおっしゃりよるから、なさらんがいいですよと言うたけれども、とにかくしてくれと言うて手術をされた。
 ところが、とうとう手術をしたほうの目だけは、全然見えなくなってしまった。それからひと月後ぐらいしたら、片一方の目が少し見えるごとなった。まだ三つぐらいです。ある時に座敷でてまりを転がしたら、転がっていく方へごそごそ這っていった。あらこの子は見えるとじゃろうかと言うて、こういろいろしてみると見えるらしいんです。まあそれから勢いづいて一生懸命親子で参ってきました。
 もうひとっつも変わらん目です。その昨日のお参りしてきとった子供と。生まれつきに白い幕が出来ておるのですから、ちょうど魚のうろこを入れとるような感じです。それがですねえ、片一方は見えるようになって、昨日手紙がきておりましたのは、もう中学校に行くようになってね、おかげで無事におかげを頂いておるというお礼の手紙でした。
 以前は月に一回ずつ、必ずお礼参拝しよったけれども、この頃はなかなかお参りが出来なくなって、お初穂だけ送ってくる。だからその話もさせて頂いた。手術をしたほうは潰れてしもうた。神様におまかせしたほうの目だけは、おかげで見えるようになったということ。
 それにはやはりそういうおかげを頂くためには、やはり一心というおかげの受け物をまず作らなければいけない。そして腹を決めなければいけない。「ままよ」というどん腹を据えなければいけない。ね。
 昨日一昨日、その昼参ってきて、そして昨日の朝も参ってきておったが、昨日、そのことをお願いさせてもらいよったら、『誰かが目を手術しておる』ところを頂いて、片一方の目がはっきりしておるところを頂いた。だから神様がおかげを、例えば、くださろうという働きがあっても、こちらに受け物がなかったら受けられんというのです。ね。
 一心を立てなければ。ね。だから私は、一昨日昼参ってきた時に、お母さんにちょうど私は、「馬鹿とあほうで道を開く」という御理解のことを話しておったところを、ちょうどそこを読んでおったものですから、「もうとにかくお母さん、あんたたち本気で馬鹿とあほうになる、心を豊かに大きゅうする、それをひとつしようと思うておかげを頂け」と言うて帰しましたが、だから昨日の朝の御祈念に参ってきておりました。今日もおそらく参ってみえるだろうと思いますがね。どちらにしたところで、やはり受け物が悪ければ、そういうおかげも神様が絶対くださるです、くださると言うたら。くださるばってん、こちらが受けきらんならしかたがないじゃない。ね。
 こちらから手品で手裏剣投げをやるでしょう。向こうの壁に人間を立てといて。そしてこっちからポンポンと手裏剣を投げます。ね。これがもうこんなところにも刺さる。手の指の間に一本一本それが刺さっていく。あれがどうでしょう、それこそ手に刺さったり、首に刺さったりしたら大変です。けれども投げる方は絶対に間違いがない。ところがこうなってから、手裏剣をよけたらほんなこつ刺さってしまうわけ。そういう時に手裏剣を投げる人を信じきって、こうやって立っておるからおかげを頂かれるとです。
 先生ああ言いなさるばってん、ほんなこつじゃろかと疑うからおかげにならんとです。だから初めから信じろと言うても、出来るこっちゃないけれども、だんだんお参りをさせて頂いて、親先生の言われるとおりにしときゃ間違いないという確信を作っていくという信心のけいこをしなきゃならん。しかも生まれつき九年も目が潰れて、目は両方とも真っ白になっておる目でも、神様はおかげをやるとおっしゃるのだから、こちらは頂く腹を作らにゃいけんということなん〔だ〕。ね。
 それには親先生の研究である。またはみ教えをいよいよ行じさせてもろうて、そのおかげを受けられる受け物を作らなければいけない。だから皆さんは、そのおかげの受け物を作る、いわば道というか、そのおかげの受け物を頂きに来よりなさるとです。
 だから本気で教えを頂いて、本気で教えを守らせてもろうて、成程、神様のおっしゃることには間違いはないというおかげを頂か〔なければ〕。先生ああ言いなさるばってん、どうか分からん。だから例えば、病気でいうならば、医者にもかからにゃならん、薬も飲まにゃならん。ね。
 だから本当に信ずるということは、そういうことです。ならそういう時にです、よし万一親先生の言われることが間違うてです、そして死ぬるようなことが例えばあっても良いという心だというのです。「ままよとは、死んでもままよということぞ」という、それが信心度胸です。ね。そこに力が受けられる。そこにおかげが受けられる、いわゆる受け物が出来たということになるのです。どうぞ。